腹が立つとき

相手に「腹が立つ」という感情は、ものすごくパワーを使うので疲れてしまいます。なるべく腹なんて立てたくないのですが、その感情自体を抑えるのは難しいことだと思います。

私は腹が立ったとき…というか、ひと通りイライラぷんぷんして、ふと「あ、私すごい怒ってる…!」と自覚できたとき、その相手に向けている目線を自分に向けるように努力しています。相手に対して腹が立つときって、自分の中の何かを守ろうとしているときだと考えているからです。

例えば、自分の触れられたくない部分を刺激されたとか、自分の譲れない部分を脅かされそうだとか、自分が一生懸命したことは相手には全く意味がなかったと気づいてしまったけどそれを認めたくないとか。

自分は何を守ろうとしているんだろう?と探っていく過程で怒りの感情をいったんストップすることができるし、それが何か自分なりに分かったとき、結局それって自分を守るために相手の行動をコントロールしようとしているのでは?と気づいてそのことにゾッとして、もうやめよう。と落ち着くことができます。うまくいけば…。
なるべくイライラぷんぷんの時間を短くできればいいな、と思って私は練習中です。
共感してくださる方はぜひ試してみてください。

決めすぎない

誰かに言われた言葉に知らないうちにずっと縛られていることがあるなぁと思うことがあります。
例えば、ともだちに「○○ってちょっと暗いよね」と言われた言葉で「そうか、私は暗い性格なんだ」と思うようになってその後も「暗い性格」をベースに生きている、みたいなことです。

そうやって自分の性格を決めつけてしまうことで、
自分は暗いから、これはできないだろうなぁ。
自分は暗いから、うまくいかなかったんだ。
自分は暗いから、たぶんしんどくなると思うしやめとこう。など、自分の行動を狭めてしまっていることがあるかもしれません。
そう言われたときは暗いところがあったかもしれないけど、それがずっと変わらないということはありません。一時の自分の性格で決めつけてしまって、その後の変化を受け入れる隙をなくしてしまっているかもしれません。

また、相手に対して決めつけてしまうこともあると思います。
この人はこういうところがあるから、自分とは合わないだろう。
この子はこういうところがあるから、これをさせるのはやめておこう。
この上司はこういうところがあるから、言っても無駄だろう。など…。
試してみてうまくいかなかった反省としてのことなら良いのですが、初めから決めつけてしまって可能性をひとつ無くしてしまっているのはもったいないですよね。

ちょっと息苦しいなぁとか、動きにくいなぁと感じたときに見直すことのひとつとして「いつの間にか、何かを決めつけてしまっていないか?」を項目に入れてみるのも良いと思います。変化を見逃さないことは、楽に自然に生きるためにはすごく大事なことだと思います。

両立すること

私は中学生のころ吹奏楽部に入っていました。他の部活の3年生は夏休み前に引退するのですが、吹奏楽部はその頃11月の演奏会で引退することになっていました。そのため、他の部活の子が夏から塾に毎日行き始めたり、本格的に受験勉強に取り組むようすを見て焦る気持ちがあったことを覚えています。同じ部活の友達と「毎日部活に行ってて大丈夫かな」「みんな今頃勉強しているのかな」と話したりもしていました。

そんなとき、顧問の先生が3年生に向けてしきりに言うようになったのが「両立をしなさい」ということでした。「どちらかを切って片方に集中するのではなく、自分で工夫して両立しながらどちらにも集中しなさい。その方が必ず力になるから」というような内容でした。

中学生の私はそれまでに「両立」することなど特に無く意識したこともなかったので、その先生の話がすごく印象的でした。「うん、なんか両立できる方がかっこいいぞ…」となんとなく思って、部活も勉強も頑張っていました。
今思うと両立の大切さがよく分かります。自分にとってしなければいけない事やしたい事など、いくつかの事のどれかを削って取り組む集中より、両立して取り組む集中のほうが密度が高いと感じています。(はじめから集中したい事がひとつである場合を除いて)

例えば「勉強しないでゲームばっかりやってしまう」という子に対しても「ゲームやめないとね」より「どうしたらゲームと勉強を両立できるか」という方向に進むよう一緒に考えながら話をしたりします。
好きで楽しくやっているゲームをやめさせるような制限をするより、両立させるための声かけや本人との相談を重ねることの方が良いのかなと考えています。密度の高い集中した時間を経験できるチャンスだとも思います。
自発的ではない場合、そう簡単に両立させることは難しいことだと思いますが、相手を信じてコツコツ声をかけていくことしかないのかなと思っています。

やる気について

やる気を出すにはどうしたらいいの?ということはよく話題になると思います。
やる気って自分から湧いてくるもので、誰かに引き出してもらうものではありません。もし誰かに引き出してもらえたとしても、そのやる気は続きません。

やる気を出すかどうかは自分次第だけど、そのきっかけは周りの誰かや何かが作れることもあると思います。その一つとして私が意識してやっていることは「できることを自覚させる」ということです。

本人が「自分でできた!」と思うところまでサポートをしながら導くことが大切だと考えています。その過程にどれだけの手助けがあっても良いと思います。本人が集中さえしていれば「できたのは手伝ってもらったからだしなぁ」とかそういうことは思っていないように感じます。それより、今までみてきた中では「うれしい」という気持ちや達成感の方が勝っているように思います。

本人のやる気のために周りができることはここまでだと思っています。あとはこれを積み重ねることくらいです。ここからはもう本人に任せてみてください。「自分でもできるんだ」ということが分かれば、本人が自発的にその先に進んでいくことは自然な流れだと思います。
それでも続かないようなら「これは本人に合ってないのかもなぁ」と力を抜いて考えるくらいでいいと思います。「なんとかさせなきゃ」の方向に進んでしまうと本人も周りもしんどくなります。

やる気って「うぉーー!やるぞ〜〜!!」みたいな熱いもののイメージがあると思いますが、私はそれだけではなくて「続けられる気力」というものも含んでいると思います。
しんどかったり面倒臭かったりするときもあるけど「でも投げ出すのはちがうよなぁ、頑張った方が良いよなぁ」と自分で思えて続けられる気力。これもやる気だと思います。

動けるときに

いろんな名前がついて、心の病気にはたくさんの種類があります。ここではまとめて「心の病気」とします。心の病気について、私が考えていることは「治る・治らない」の前の「動けるかどうか」の段階がすごく大切なポイントなのではないかということです。
自分で「ちょっとやばいかもしれない」と思ってその改善のための行動ができたり、まわりが無理矢理にでも病院やカウンセリングに連れて行くことができる段階。ここで行動して周りの人やサービスとつながることがぎりぎりのラインなのかもしれないと強く思っています。

本当に、完全に心の病気になってしまうと動けません。周りが入る隙もなくて、本人も周りをみる余裕はありません。私自身は経験がないのでそのような人を見て想像することしかできないのですが「自分との戦い」になっているように思います。一人でどんどん深いところに行ってしまって、周りが何を言ってももうその人の中には入らず、本人だけで苦しんで、話が進んで、決定して、実行してしまうこともあります。止めようがないのかもしれません。

だから、自分でも周りの人でも「おや?」と思ったら動いた方がいいです。動くというのは「話す」ということです。話さないとやっぱり始まりません。相手は誰でもいいです。独り言でさえいいように私は思っています。とにかく心から外に出すことが重要です。私はそのようなことで悲しいことがありました。まだボーッとしているのですが、その中でも感じたことと、日頃から考えていたことを合わせて残しておこうと思って書きました。

話を聞くとき

聞き手の態度や姿勢によって、話し手の話の内容は変わってきます。

例えば「学校でこういうことがあった。自分はこう思っていて、こうなると思う。だからやりたくないんだ」と、私に話をしてくれたときに「その意見は相手にちゃんと伝えたの?」と聞くと「面倒臭いからやりたくないって言った」と言うのです。「ちゃんと理由があるのに、どうして?」と聞くと「どうせ否定されるだけだから」と返ってきます。

本当は思う事があってちゃんと理由もあるのに、聞き手によって話す内容を変えてしまうのです。これは一つの例で様々なパターンがあると思うのですが、この例だと話す方も聞く方もなんだかもったいないなと感じます。話も良い方向には進みません。
では、そうならないための聞き方とはどんなものだろう?と考えて、気をつけるようにしていることについて書こうと思います。

相手の話を聞くと、聞き手はそれについて何かを感じたり思ったりします。他愛もない会話の中ではポンポンとそれをお互いに交わすことで会話が進みます。
でも、ちょっと大切な会話…というか、相手の気持ちをきちんと知りたい場面では「自分が思うこと」を少し制限する必要があると思っています。制限するというのは、思うこと自体にではなく「思うことを表にだすこと」を控えるということです。

自分の考えはいったん置いて、相手の話を相手になったつもりで感じるように聞くことが大切だと考えています。そうすることで相手の話に集中できるし、相手も「否定されるかもしれない」などの不安を抱く必要がなくなり、安心して話ができるのではないかと思うのです。相手が感じていることを一緒に味わった後に、自分が思ったことを伝えてあげることで会話を深めていくこともできます。
どうしても自分の感情がじゃまをして難しいのですが、そう聞くように努力をすることだけで、その会話は大きく変わってきます。このことはふだんの生活の中で生かせる場面が多いのではないかと思います。ぜひ試してみてください。

0か100思考

0か100、白か黒など結果をはっきりと2つに分けて考える人が身近にいて困っているor自分がそういう考え方をしてしまってしんどい…というお話を聞くことがあります。

ひとつうまくいかないことがあると全部がダメだと考えてしまう0か100思考は、自分を否定してしまうことが多いので本人はもちろん辛いのですが、周りにいる人も「またそう考えちゃうの?どうしてそうなるの?」と疲れてしまいます。

でも考え方には元々のその人の気質も関係しているし、考え方がクセになってしまっていることもあるので、治したいと思ってもそう簡単に変えることはできません。

「50の自分」も受け入れられるようになれば少し楽になれると思うのですが、そこに至るには0と100の両端にしか目が行かない本人ひとりでは最初は難しいので、周りの人の言葉かけがある方が良いと思います。

「そこまではできたんでしょ?それなら今回はもう良いんじゃない?」
「完璧とまではいかないかもしれないけど、前よりは進んでるんじゃない?」
など、0と100の間の段階をコツコツと気づかせてあげることで視野を広げていくこと、その段階に自分ひとりでも気づくことができるように訓練をしていくことが大切です。

また、この考え方の人は「こうじゃないといけない」と、あるひとつのことにすごく固執してカチカチに凝り固まってしまっていることも多いです。その凝りに気づいた周りの人が「どうしてそう思うの?」と本人といっしょに見つめなおして、ほぐしていくことも必要だと思います。

失敗したら落ち込むことは当然だし反省をした方がいいです。譲れないポイントがあって貫くことも素敵なことです。ただ、そこから抜け出せなくなったり、それ以外のことまで全部否定してしまったり、選択肢を極端に減らしてしまうところに問題があります。
力まず、視野を広く持っていられれば、そうなってしまうのを避けることができると思います。

もし周りに0か100思考で辛そうな人がいたら「その考え方やめなよ」というのではなく、少しずつ視野が広がるような言葉をかけてみてください。

自己調節

なんだか気分が晴れない。大きな具体的な悩みがあるわけではないのだけど、細々とした不安がいくつもある。あれは大丈夫だろうか?そういえばあれも気になる、あれもまだしていない。面倒臭いなぁ、いやだなぁ〜。
みたいな感じありませんか?私はしばしばあります。
そして最近、このような気分に対しての気づきがあったので書いておこうと思います。

「もうちょっと暖かくなったら着よう」と思って買って置いていた服がありました。少し高かったけどとても気に入ったので買ったものです。その服を、上記のような気分の時に着るタイミングがありました。そしてそれを着て外にでたら自分でも「あれ?なにこの感じ?」と不思議に思うくらい気持ちが軽くなったのです。
不安はひとつも解決していないのに、ただ新しい服を着ただけでこの気分の変わりよう。単純すぎて自分でも呆れてしまいますが、これはもしかして重要なことなのでは、と考えました。

不安が解決された訳でもないのに、あるきっかけで気分が晴れるということ。
仕組みはうまく説明できないけど、こうやって自分の気分をだましだましでも調節していくことが日常を機嫌よく過ごすことにつながるのかなと思います。

私の今回の場合「新しい服を着る」ということが気分が変わるきっかけになりました。このような「きっかけ」を見つけた時にストックしておくと良いのではないかと思います。
そしてなんだか調子が乗らない時に「あれ、やってみるか」とストックを持ち出して自分のご機嫌をとる。そうやって自己調節ができれば自分にもまわりの人にもきっと良い連鎖になると思います。

無口な人

無口な人ほど「自分との会話が多い人」だと私は捉えています。心の中ではすごくおしゃべりでいろんなことを自分と話しているのだと思っています。無口な人の中には自己完結してしまって誰かに自分のことを伝え慣れていない人もいると思います。全員にあてはまるわけではないけど、少なくとも私はこのタイプに当てはまります。だからすこし主観が強めですが、似ている人もいるだろうと思うので書いてみます。

話す相手が自分の場合、思ったことはぽんぽん言えるけど受け止めるのはぜんぶ自分でそこに誰かの視点はありません。誰かに伝えるときはある程度考えをまとめて伝える用の形を整える作業が必要ですが、相手が自分だとそれをしなくて良いので考えはたくさんあるけどバラバラと散らばった状態になりがちです。そのため、いざ話す場面があっても思うように伝えられず、人と話した後は「ひとり反省会」が開催されて「あれを言ったのは良くなかった。たぶんこう思われてしまっただろう」「なぜあんなことを言ってしまったんだろう。気を悪くさせたかもしれない」など反省点が山ほど出てきて、結局「やっぱり人に話すのはやめておこう」という結論になって無口は続きます。

無口なのがダメだとは思っていないのですが、相手とのコミュニケーションが不可欠な場面や言葉にして話さないと次に進めない場面もあります。だからもしそこで困っているのなら相手に伝える練習をしておくことは、自分を「やっぱりだめだ」とがっかりさせないためにも良いのではないかなと思います。例えば私がこうやって考えていることを文章にしているのもその練習の一つだと思ってやっています。

そしてカウンセリングもとても良い練習のひとつになります。カウンセリングではうまく話す必要はまったくありません。自分の思いを声にして外に出してみることで、自己完結していたところに変化が出ます。人にどう思われるかではなく自分がどう思うかにスポットを当てて深めていきます。そうすることで「自分は実はこう思っていたのか」などの気づきがあったり、自分のことをよりよく知る機会にもなります。自分を知れば相手にも伝えやすくなります。カウンセリングはこのように使うこともできます。

私はカウンセリングをしたり子どもの話を聞く立場でもあるので、話すことに慣れていないのだろうなと感じたときは「今話したことだけであなたを判断することはないのでその点は心配しないでください」と伝えることもあります。私が実際にそういうようなことを言われたことがあって、安心して話しやすくなった経験があるからです。もし周りに話すのが苦手そうな人がいたらこのような言葉がけをしてみるのも良いかと思います。

人の目

「人の目が気になる」という意識は、程度の差があるにしてもほとんどの人が持っているものだと思います。
自分がどう思われているかが心配で思うように行動ができなかったり、もしかして今笑われたんじゃないか、悪口を言われたんじゃないかと不安になってしまったり。

そのことを誰かに相談しても「誰もあなたのことそんなに見てないよ」とか「気にしすぎだよ」と言われて終わってしまうというのも、多くの人が経験したのではないかと思います。

私も人の目は気になるし、それによって身動きが取れなくなってしまうこともあります。
「どうすれば人の目を気にせずにいられるんだろう」と何度となく考えてきました。

そこで、今のところ辿り着いた考えは『気にしないようになるのは無理。気にしてしまっている自分にどれだけ早い段階で気付けるかが大事』ということです。

気にしないことを目指すのはたぶん難しいです。そんな難しいことを目指しても疲弊してしまうだけなので「あ、私はいま人からどう思われているかが原因で気分が落ちているな」と自らで気づき、その考えを手放す訓練をするのが現実的な対処法だと考えています。
落ち込んで負のぐるぐるに入ったとしても気づいて手放せばそこから抜け出せます。
目指し極めるとすれば「気づきまでの時間を早くする」というところなのではないかと思います。

「手放す」には人によって様々な方法があると思います。体を動かしたり、音楽を聴いたり、趣味のことをしたりして気分を変えるのも良いと思います。

他者がどう感じるかやどう行動するかを自分がコントロールすることはできないし、してはいけないことです。
でも多くの悩みはそこにつながるのではないかと思います。だからこそ自分にできる術を身につけておけば、自分を楽にしてあげることができるのではないかと思います。